また余計なことを・・・

30代、どう楽しく緩やかに生きよう

クソフェミはどこにいる?女性の選択の自由とは。

f:id:y-i-epicday-1-1:20181012030830j:image

今回のキズナアイ騒動などなどを見ていて、とっても不思議に思うことがある。

 

この辺りのツイートを見ての私の感想なのだが、私はフェミニストを名乗る人やフェミニズムの勉強をしている人で、女性が女性らしい服装をしたり性表現をすることを批判する人を見たことがなくて。

「女の子にピンク色を押し付けないで」と言っている人が「ピンク色が好きな女の子は許せない」と言っていることも見たことがなくて。

「女の子だからってスカートやかわいい服を選ばなくていいんだ」ってなった人が他人に「それ男のために・・・」とか言ってるところも見たことがなくて。

いや、もちろん私が知らないだけでいるのかもしれない。そういう人も。

ただ、自分の見た感じ、それらは別々で起こっていることなんじゃないかと思う。

フェミニストが「女の子にピンク色を押し付けないで」と言っていて、全然違う人が「ピンク色が好きな女の子は許せない!」と言っているのを結びつけちゃうとか。

あるいは、そういうことを言っているんじゃないのに「女性が自由な服装を着たりしていることを批判している」と勘違いしているんじゃないかとも思う。
今回のキズナアイ騒動なんて、いろんなブログやツイッターを見たけども「性的だから」という単純な個人の感覚で批判している人なんて本当に一部ではないのか?

私も記事を書いたけれど(良かったら読んでね)。

キズナアイとたんぽぽの川村さんと、ブスは罪だということについて。 - また余計なことを・・・

しっかり「こうこうこういう理由で、キズナアイはちょっとどうなのかなぁ?」って書いてもそれをしっかり読まずに「性的だから嫌なんでしょ?あなた個人の感覚の問題ですよね?」で済まされている気がする。

個人の選択の自由

で、じゃあ実際に個人の自由を奪おうとしてくる人たちに出会うことは本当にたくさんある。

私が#metooとか、フェミニズムとか、セクハラとか性暴力とか男女平等について発信をしたり考えたりするときにモヤモヤするときがある。

「脱いでるのにそういうことには文句言うんですか?」
とか、
「男性に性を売りにしているのだから仕方ないのでは?」
とか、
「でも女性は男性に助けてもらったり優しくしてもらったり、女であることを使っていますよね?だから仕方ないのでは?」
とかの類の言葉を投げかけられたときだ。

ここで「ゴッチャゴチャになってるな」、と今はわかるのだが、最初は自分も良く分からなかった。

まず、人間には表現の自由というものがある。
私は、自分の意思で裸になってもいいし、セクシーな格好をしてもいいし、女性らしい部分を生かして仕事をしてもいいし、人に立場を利用しての圧力をかけずに優しくしてもらったり助けてもらったりすることは受け取っても良いものだ。

「力仕事は頼るくせに男女平等を訴えるなんてわがままだ」ということも言われたことがあるが、助け合いなんて人間当たり前にすることじゃないのか?
そもそも助けたくないなら助けなければ良い。私は例えば足の悪いご老人とかがいたら倒れないように近くで支えたり荷物を持ったりするけれど、だからと言ってそのご老人に「助けてやったんだからお前はこちらより下だ」なんて思うわけがない。

「女を助けてやったんだからお前は黙って男の言うことを聞いておけ」ってことが言いたいのだろうか。そんな気持ちなら助けてもらわなくて結構だ。助けたい人、優しくしたい人が優しくすればよい。

自分が過去に取材を受けたら雑誌そのものが最悪な主張をしていた幸福の科学出版の雑誌でのセクハラ特集でも書いてあったのですが、(その時の記事がこちら>>幸福の科学出版「ARE YOU HAPPY?」インタビュー掲載について - また余計なことを・・・

この中で男性同士で話す内容の中に「女性だって女であることを使って取引先と仲良くしたりしてるのに・・・」という一文があった。
これの何が問題なのだろうか?
お互いが気分を害することなく仲良くすることの何が問題なのだろうか?男性だって、人たらしと呼ばれたりする人は取引先の人と仲良くなって食事など行く人もいるだろう。それで仕事につながれば「人柄」を褒められるのに。

一方、性暴力やセクハラ、性差別というのはどんな人にもしてはいけないことだ。

今更だが、アラーキーの件で記事を書かれたモデルのKaoRiさん。

note.mu

この記事について私が言及したときに、こんな意見が身近な女友達から来た。

「私はこの人のことどうかと思った。だって自分がアラーキーといたかったからいたんじゃないの?しかも、この記事にもところどころに写真載せてるし。」

この時は私もフェミニズムというものを理解しておらず、(いまでも分からないことはたくさんありますが)なんと言っていいのか分からなかったけれど、今ならはっきりと答えられる。

「KaoRiさんにはアラーキーに写真を撮ってもらいたいという意思を持つ権利があって、アラーキーに自分の望む形でヌードを撮ってもらいたいという希望をする権利があって、それは自分の意思に反した形で自分の望まない写真、自分の裸を出されることを拒否できるという当たり前のことを帳消しにすることではない」という感じかしら。

はっきりと答えられると言った割に全然スカッとは論破できなかった。

要は、この私に意見して来た女友達は、
「自分が望んでアラーキーに写真を撮られたいと思ったんだし、裸になっていてそれを望んでいるんだから、意図しない形で出されることだって我慢すべきだ(もしくは仕方ない)」と言いたかったのだと思う。

意図しない形で裸を出されるというのは、犯罪だ。人権を無視した話だ。
しかし、女性が「こうしたい」という願望を叶えるには、「犯罪にあっても仕方がない」と言われることが本当に多い。そんなことあるはずがないのに。

私がよく行く飲み屋さんで「頭をポンポンされる」という自分にとってこれはセクハラだという行為を受けたことがあった。(のちに顔を触られたりもした)
この時も私は女友達に、「女が一人で飲みに行くということはそういうことを我慢しなきゃいけないってことでしょ?」と言われた。

私には「近所の飲み屋さんに気が向いた時に一人で飲みに行きたい」という希望があって、それは「セクハラにあっても仕方がないこと」らしい。それは「女だから。」

女の「〇〇したい」は、わがままになる。人権を尊重されなくても仕方がないと言われる。

私は、それに対して「それは男女平等じゃない」と言っている。

私は自分の体が好きだ。たくさん自分の裸の写真を撮りたいし、残したいし、お披露目だってしたい。(写真を)
だってそれは自分の中で楽しいことだし作品を作るというとてもやりがいのあることだからだ。

しかしそれをしていると、「性犯罪にあっても仕方ない」とか「セクハラにあっても仕方ない」とか言われる。

ほら、私の自由意志なんてどこにも無くなるじゃないですか。

私が脱いだり写真を撮ってもらったりすることは犯罪でもなんでもないのに。

昔のグラビアで私の許可なく出されてしまったものだって、今の自分が脱いでいるから訴えるのは難しいそうだ。私が怒っているのは、自分の意思を尊重されることなく世間に出されてしまったことにであって、裸そのものに関して怒っているわけではないのに。訴えるには今自分が脱ぎたくても脱いでいたらダメなのだ。変なの。

で、私にそういうことを言って来た人って、だいたいフェミニズムのフェの字も知らない人だった。自分の中の感覚としては、男尊女卑なことを我慢して生きて来た人が多かったかな、と感じる。我慢というか、当たり前すぎて自分が我慢していることにも気がついていない、けれどモヤモヤはしている人、文句を言っているけどその原因が男尊女卑だということに気がついていない人。そして自分は我慢しているんだからと、それに反論している人をわがままだと感じる人。

もしかしたら過去の自分でもあるかもしれない。

クソフェミはどこにいる?

ここで最初の話に戻る。
別々な人たちの発言を一緒にしていませんか?
「クソフェミ」とか「過激フェミ」みたいに呼んでいる人たちって、そもそも普段からフェミニズムを訴えている人たちでしたか?

もちろんゼロとは言わない。そういう人も中にはいるのかもしれない。
けれど、私の見ているフェミニストの人たちはいつだって本人の自由な選択というものを一番に尊重していると思う。

結局女性が選択の自由を訴えているのが気に入らない人がフェミニスト叩きをしたくて、勝手に一緒にしている感が強いなと私は感じている。

で、それにつられて一部のフェミニストたちも「一部のクソフェミが・・・」となってしまっている気がして。
そもそもその人フェミニストって言葉知ってる人でした?と聞きたいし、もう一度キズナアイを批判しているという人たちのブログとかを読んでほしいなと思う。

ただ単に「性的だから」とかいう理由で批判しているのかどうか、もう一度確認してみてほしい。

はたから見てて、言いたいことは一緒そうなのになんか女性同士が喧嘩してるなぁって悲しくなってしまった。

これって結局、女性の敵は女性にしたい人たちが仕組んでる一面もあるんじゃないのかなって思った。

私はとにかく思う。
女性男性関係なく、どんな選択もできる自由を。

子どもができた男性が働きたいと言った時に「わがまま」だと言われないような選択の自由を女性にも。

男性がどんな服装をしていても「性犯罪にあっても仕方ない」と言われないような選択の自由を女性にも。

したいことをできてしたくないことをしない自由を女性にも。